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景清伝説 6 「景清伝説」

 当地に伝わる「景清伝説」如何だったでしょうか?。
 「千葉県君津郡誌」や「中郷の郷土史」の中に登場する景清に関する記載も「言い伝え」の域を出るまでには至らないような気がします。物証が少ないのが「伝説」たる所以なのかも知れません。「伝説」には、ロマンがあり、私たちを引き付ける何かがあります。
 「藤原景清」は、本きよかわ商店会のホームページの公開を機に、当地「清川あ・れ・こ・れ」の第一弾として地域取材をし、浄瑠璃や歌舞伎などに縁の無い私にとって初めて知った人物でありました。調べていく過程で「藤原景清」の伝承が日本各地にあることが分かりました。

 平安時代末期の源平の戦いで活躍したものの壇ノ浦の合戦で敗れ、その後、源頼朝を暗殺せしめんとつけ狙い、捕縛されたのち、絶食し一命を絶ったとされる勇将は、実在の人物ではありますが謎の多い人物であったようです。それが故に各地にその伝承が数多く残っているのでしょう。何れにしろ、その多くの伝承の中に当地清川にもその名が残っていることは大変うれしい限りではないかと思います。

 この「景清伝説」を「きよかわ商店会や当地域の活性化の起爆剤にならないかなぁ?」、などと想いを馳せている私であります。

 結びにあたり、全国各地に伝承されている「景清伝説」について、各WEBページへのリンクをもちまして紹介とさせていただき終わりとさせていただきます。

きよかわ商店会事務局 宮本育夫

 景清廟(かげきよびょう)/宮崎県宮崎市下北片町
 景清洞/山口県美祢市美東町
 錣引跡/香川県高松市牟礼町 ※ページ中段
 阿古屋伝説&景清爪形観音/京都府京都市東山区
 景清社/愛知県名古屋市熱田区
 景清塚/茨城県石岡市
 景清道&景清腰掛石&景清橋/滋賀県近江八幡市
 景清神社&景清歌碑/大阪府大阪市吉田町
 景清の娘人丸の墓&景清の松/茨城県鹿嶋市
 源頼朝暗殺計画/藤原景清の執念
 景清土牢/神奈川県鎌倉市
 謡蹟めぐり 景清/千葉県大原町町・千葉県一宮町

 

 

 

 

2016年04月09日

景清伝説 5 「祇園」

 旧清川村社、祇園の須賀神社は、京都祇園の八坂神社を勧請して天王社と号し、地名も「祇園」と称するようになったようです。
 一説によると、承安年中(1171~1174)藤原景清が領地鎮護のため、京都の祇園社を遷し祀ったと言われています。
 須賀神社の裏側を流れる小櫃川は、祇園川とも言われ、小櫃堰公園一帯は、上流から字上鴨、中鴨、下鴨の地名があるそうです。

※参考文献 千葉県君津郡誌(下巻)

 

 

 

 

2016年04月09日

景清伝説 4 「年の森・年の宮」

 「景清の井戸」の解説板にあるように、「元旦にいつものように亀井の水を汲みに出かけた景清の下男が、その帰り道、雪の中に倒れ凍死した。」と言う伝説があるそうです。
 この下男が凍死した場所を「年の森」と言い、弔ったところを「年の宮」と言うそうです。
 それを裏付ける資料として「牛袋村史」に「歳ノ宮 林五町九反六畝十三歩(約18000坪=約60000㎡=約6ha)」と言う記録があるようです。また、当時のこの「年の森」の現同所にお住まいのお宅は、中郷公民館作製の「ふれあいでんわ」に「年の宮(屋号と思われます)」と記してあるそうです。
 中郷公民館隣の「金蔵寺」の境内には、「年之宮大神」の碑がひっそりと建っています。元々は、年の森の小丘に祀られていたようですが、耕地整理の際に境内に移されたようです。

年之宮大神

金蔵寺

※参考文献 中郷の郷土史

 

 

 

2016年04月09日

景清伝説 3 「景清の井戸/景清様」

 『昔のことではっきりはしないけれど、言い伝えによると、平家の侍大将藤原景清が菅生城(陣屋と思われる)に居た時に、(現在の中郷公民館の脇道を100m程行ったところにある池の奥に)「亀井の水」と呼ばれ涸(か)れることなくこんこんと湧き出る泉があり、このきれいな水を景清が大変気に入り、いつもこの水を汲んで飲んでいた。』と言う記録が「望陀郡井尻邨(村)誌【明治19年】」の中にあるそうです。

 地元のお年寄りは、この「亀井の水」を「景清様の井戸」と尊称しているそうです。これを略して「景清さま」と呼んでいるのだと思います。また、~景清陣屋址~で紹介した「景清宮(祠)」も「景清様」と呼ばれているようです。

 この「景清さま(景清の井戸)」は、今も湧き続けています。景清が愛したこの水を飲んでみたい気がします。

中郷公民館(白い車の先を右折) ↓

塀が切れた所で右折、100m先です ↓

「景清の井戸」入口(奥から水が流れて来る)

今もなお湧き出ている水

透明できれいな水が溜まっています

解説板
解説板の内容

    景清の井戸
 菅生に陣屋があったと伝えられる平家の侍大将藤原景清がこの井戸の清浄な水を好み 元旦 下男が水汲みの帰りに雪の中で倒れたという伝説の井戸である

※参考文献 広報きさらづ(木更津市) ふるさと探訪15・32
※参考文献 中郷の郷土史

 

 

2016年04月09日

景清伝説 2 「景清陣屋址」

 JR久留里線上総清川駅で下車し、久留里線に沿って走る国道410号を右手(久留里方面)に歩くことおよそ150m、左手に木更津東邦病院の大きな建物が目に入ってきます。病院を見ながら歩みを進めて参りますと、前方100m程のところに東京湾アクアラインへとつながる東京湾アクアライン連絡道の高架橋が見えます。連絡道の下をくぐり抜け50m程歩くと左手にNTT清川電話交換センターの建物に行き着きます。

国道410号 左の建物が木更津東邦病院を進む ↓

東京湾アクアライン連絡道高架橋を進む ↓

高架橋先左のNTT清川電話交換センター手前を左折 ↓

 その建物の手前の細い道(普通自動車1台がようやく走れるほど)を左に入り進みます。3か所ほど道が交わる個所がありますが、左手に走っている東京湾アクアライン連絡道高架橋と平行する方向へ進んで行きます。200m程進んで行くと前方に小櫃川が見えてきます。同時に、小さな杜(もり)が見えてきます。

左折後200m程進むと田園風景の中に杜が見えます ↓

田園の中の杜(もり)

眼前を流れる小櫃川(おびつがわ)と桜の木

「景清」の名が刻まれています

 この杜こそ、藤原景清ゆかりの址(あと)なのです。この場所は、『景清陣屋址』と言われ、景清が長じてこの地に陣屋を構えたと伝えられています。
 ところがこの陣屋址、地元の我々でもほとんど知らない存在なのです。元々は、この場所ではなく、眼前に流れる小櫃川の河川改修工事により川床になってしまったため、工事終了後に今の場所に移転したと言う経緯があります。鳥居の前に立つ解説板に簡単な説明があるだけなのが残念です。

 それにしても天下の「悪七兵衛景清」の陣屋址とされる地なのですから、もう少し手厚く管理したり、「伝説の地」としてアピールしても良いように思われます。
 ひっそりとした陣屋址の祠(ほこら)の脇には、なんと「三笠宮殿下御手植えの木」があるのです。これには驚かせられます。さすがに平景清ですね。
 静かな杜の中で、「御手植えの木」が、平安時代の武将景清の存在を「この清川の地に後世まで伝えていくように」と語りかけているようです。

歴史を示す唯一の解説板

祠(ほこら)

三笠宮殿下御手植えの木

景清陣屋跡の解説板   「解説板の内容」
  景清陣屋跡
平景清は平氏の勇将で藤原忠清の子して夷隅郡大原町十光寺谷で生れ幼名千光丸と称しました 景清が長じてこの地に陣屋を構えたと伝えられ当時の遺物と称する甲冑や剣等が伝えられ又井尻に当時利用したと伝えられる景清井戸も残っております寿永二年平維盛に従って源義仲追討の軍に加わったが敗北しこの年七月に平氏一族が都落ちするに及んで行を共にしました小櫃川河川改修工事によりこの地に移転しました                            昭和四十八年四月二十日

祠の目線で

※ 【長じて】の意味 「成長して・年取って・出世して・好きで・気に入って」など・・・。
※ 【陣 屋】の意味 時代によって多少異なるようですが、「武士の詰所・臨時軍営所・城を持たない武将の屋敷・地頭の屋敷など・・・。

 

 

2016年04月09日
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